昭和四十四年一月十七日


御理解第九十五節 世には神を売って食う者が多いが、この方は銭金では拝まぬ。神を商                  法にしてはならぬぞ。


 私ここんところをいつも頂くですけれども。今日、私は皆さんに聞いて頂こうと思う事は、この九十五節と、どういう風につながり、どういう内容を御理解して下さるのか。実は、私にも見当がつかないのです。ここんところをどう頂いて良いのか分からん。(   )も今日、皆さんの信心でひとつ頂いてもらいたいと思うんです。お互い信心によって、力を受けるとか、徳を受けるとか、ね、いわゆる光を受ける。信は力とか、信は光とかと言われるくらいですから。確かに、一つの光を頂く。ところが、その明るい程よいというても、明る過ぎてもいけないですね。例えば、四畳半なら四畳半の部屋に百燭光がいくつも点いておったんでも、仕様がないですよね。いや、それこそ過ぎたるは及ばざるがごとしで、かえって、眩いような事になるのじゃなかろうかと、こう思う。そこで、ここで、んなら、信心によって、いよいよ光を大きく、まあ言うならば、燭光よりも、百燭光とというような光を現して行かなければならんのですけれども、その、狭い心の中に、大きな光があっても、かえって困ると云ううのです。そこで、広いと云うかね、豊かなと云うか。広い大きな所に、大きな光が適当に、点じられると云う事で、はじめて光が光としての値打を発揮する事が出来る訳です。まあ、私共の場合、光が過ぎると云う事もないのですけれども、光がやはり、こういう事が過ぎておるのではなかろうかと云う事があります。久留米の初代を評して、三代金光様がお若い時に、久留米の石橋さんこそ真の人ですなあと、こう仰った。出すぎもせず、引っ込みすぎもせずと仰った。ね。だから、真の人と云うのは、出すぎもせず、引っ込みすぎもせずと云う人でなからなければならない事を、ここに分からしてもらいます。ね。引っ込みすぎもせずと。そういう、私はおかげを頂く為に、どうでも一つ、大きく豊かにならなければならないという事と同時に、出すぎたり、それから引っ込みすぎたりしないで済む信心を頂きたい。私共が何と言うですかね。暗い心の時、ちょっとおかげを頂くと云うか、明るいニュースが、まっ、入って来ると、途端に、まあ、なるほど明るい事が起きて来るのですから、まあ、明るい事と云うよりも、そうですね、自分に都合の良い事ですよね。自分に都合の良い事が起きて来ると、心がパッと明るくなる。自分に都合の悪い事になってくると、今まで明るかったのが、パッ消えてしまう。ね。自分に都合のいい事が起きるから心が明るくなる。都合の悪い事であったら、明るかった心が暗くなると云う、そういう様なものは、私は大体は明るいものじゃないと思う。ね。まあ、言うなら、お天気屋さんと云う事になるのじゃないでしょうか。明るかったごたったんです。本当に明るかったんじゃない。信心を頂いておりますと、ね、そういう事を時々体験致します。ね。これが普通ならば、心が何とはなしに明るくしておれるだけじゃなくて、むしろ、そういう難儀な問題に直面した時に、心丈夫であり、ね。心の隅々まで自分を反省出来る。これは、心が明るいから、自分の心の隅々まで見えてくるのです。ね。だから、そういう心が明るい心。ね。何かそこに、いわゆる自分に都合の悪い事。言うなら、それを難儀と言うてもよかろう。ね。難儀に直面した時に、ね、自分の心が暗くなるどころか、本当にこういう時に信心を頂いておるという事が、まあ、何と有難い事かと。だけではなくて、自分の心の隅々までも反省する。自分の心の隅々まで信心の光によって、自分が一段と深められる、よく分かる。これでは相済ん事になっておったと云うような事が分かって来る。そういうような、私は心を、明るい心と言うのだと、こう思うのです。ね。今年の、まあ、スローガンで、ここのスローガンであるところの、「より明るく」と云う事はね、ただ、ほがらかにしておれと云う意味とは、ちょっと違う事になりますね。ね。にこやかにと言うても、ね、そこから生まれてくるにこやかさ。信心によって、心の中にいつの場合でも平生心と言うかね、平和な心を頂かせて頂けれる。その事が有難いと云うのが、和賀心だとこう思うのですね。和らぎ賀ぶ心。どんな場合でも自分の心を平生に保っておく事が出ける。その事が有難い。ね。その事が有り難いと云うのが、賀び。ね。いわゆる、和賀心とは、そういう心を言うのだ。ね。だから、にこやかにと云う事は、にこにこ笑っておると云う事だけではないと云う事が分かる。ね。和らぐ、賀ぶ。そういうものが、心にいつもある。そういうようなものが、ある時に、そういうおかげを受けておる時に、例えば、んなら、どのような問題、難儀、そういう事に直面しても、いわゆる、にこやかに、明るくそれに対処していく事が出ける。又は、対決していく事が出ける。そこにはね、確かに出過ぎる事もなからなければ、引っ込みすぎる事もないだろうと思います。自分の心が薄暗かったり、自分の心が暗かったり。言うならば、和賀心を失しておる時、無くしておる時、ね、自分に都合の良い事がパッとあると、心の中が明るくなったと云うのは、これは、だからおかしい事になる。そういう時に、必ず出すぎるような事になるのじゃないでしょうか。過ぎたるは及ばざるがごとしと云うような事になるのじゃないでしょうか。なかなか、この、より明るく、よりにこやかにと云う事に毎日お互い、皆さんも取り組んでお出でられるでしょうけれども、私もその事に取り組ませて頂いておって、その事の難しさにいよいよ気付かせて頂く。しかも、これは、ただほがらかであるとか、(顔色が?)ちょうど江弁須さんか大黒さんのようにニコニコしておらなければならんとかと云うようなものではない事に気付かせて頂いて。結局は、天地書附の中にある和賀心。和らぎ賀ぶ心。これが本当なものになって行くと云う事である。そして、その本当なものを求め、又、それを頂いて、それをいつも確かめて行く。ね。はあ、自分のは明るい、にこやかなものであると思うておったが。そうではない証拠に、一遍に例えば暗くなったとするならですね、それは本当なもんじゃなかったんだと、まあ、和賀心の追求と云うかね。本当の意味においての明るい心。そのように明るい心が、点滅したんじゃいけない。消えたり点いたりしちゃいけない。信心の光と云うものは、いつもそこに五燭光なら、五燭光。十燭光なら、十燭光のおかげを受けておるなら、それだけの光が、いつもこう、絶えずなからなければいけない。それを維持して行かなければ駄目。ね。それが段々おかげ頂いて、五十燭光にも、百燭光にもなって行くようなおかげ。ね、その時、頃には、例えば、んなら昨年の信心である、ね、いよいよ豊かにとか、いよいよ大きくと云う自分の心の内容というものが、いよいよ大きくなっていく。だから、それが明るすぎると云う事もない。そこには、いわゆる過ぎたる事。言うならば、出過ぎる事もない。真にいわばなるのです。どうも、この出過ぎる事。そういうような事がですね、私は今日の御理解の、神を商法にしてはならぬと云ったような事に、関連がある様に思う。私はここんところ、今日はよく私自身も分からんのです。ね。日頃、いつも頂いておる、その神を売って食う者が多いとか、この方は銭金では拝まんとかと。ね。なるほど、これだったら、神様を銭金で拝むような事はせんでよかろうと、こう。ね。心がいつも平生である。いつも和の心と賀の心と。言うなら、明るく、またはにこやかなと云う、ね、まあ本質と云うか。ね。ただ、それは、あのほがらかであるとか、にこにこしておると云うものではなくて、この、その本質は、和賀心なんだ。和の心と賀びの心なんだ。そういうものが自分の心にある時ならですね、神を売る事もいらなければ、商法に使う事もないだろう。昨夜、(  )のおかげを頂いて、あの、御造営の方が、まあ、だいたい切りが付きました。こちらの家げん、あの茶室の方と、それから私の前のその蘇鉄園があるところ。ああいうところを、ますこし手直しをしたいと言うておられますけれども、これが夏でなからなければ出けないという訳ですね。ですから、もうそのところを残すだけであって、後は、もうほとんど、まあ完成しました訳です。そこで、あの、庭師の方達へのお礼の事やらがございますので、昨日、宮崎副委員長が久留米に参りましてから、それを、まあ、支払いの事についてやら、あの、その事で行かれました。それで昨日、委員長であります正樹さんと宮崎さんがお出でられました。ね。そして、まあ、言うなら請求書をもらって来にゃんところが、あまりにも思うたよりも安かった訳です。ね。はあ、これはもう、本当にもう、えらい、まあ、安うしてある、(勉強?)しちゃる(訳?)。しかも、日にちも、もう本当に短期日の間に、結局みなさんの(奉賛が、)皆さんが、毎日沢山奉仕致しましたから、まあ、私どもは1ヶ月ぐらいかかるだろうと思うておったのが、まあ、10日で済んだんですからね。値段も非常に、こう安い。ほれで私は、一番ここから、その特に、ね、そのいわゆる(ばいり)先生だけには感謝状の一つも、それに、まあ、記念品の一つも贈りたいと。けど、またあんまり高ういっぱい取っちゃるなら、そんな記念品やらの、やっぱ心をせねばなりませんから。まあ、とにかく、いっちょ向こうの請求書を見てからの事にしようというので、昨日二人で行かれた。ほんで、二人、夕べもう遅うから帰って見えて。実はこうこうでしたと。もう、もう大変にこちらで御用して頂いた事を非常に喜んで頂いて。もう、しかも、もう本当に、もうそれこそ下にも置かんようにして、あの持て成されてですね。まあ、有り難い事であったと言うて帰ってまりいました。そこで、その、今日は、まあ、とにかく、まあ、秋永先生に明日の朝、よく話し、まいっぺんその事をどうしたら良いかという事を話し合って。それで、まさきさんと宮崎さんと、それから秋永先生と。まあ、本当を言うなら礼を尽さなければならないから、私も一緒に夕方から行って。そして記念品を、まあ、色んな物ではいけんから、まあ、あちらで喜ばれるような物を整えて。そして、あちらに夕方行ったんで、またあちらにお食事の準備にでも(立ち触り?)したら気の毒だから、まあ、どこにか一席設けて。まあ、夕飯でも差し上げようと。というところまで話を決めてあった。で、今日秋永委員長とその事を計って、そうする事になっておりました。まさきさんも、そのつもりで夕べはもう帰りました。ですから、その事を、私神様に、今朝お届けをさせて頂いておりましたらね、あの、普通のお杯を二つ重ねて頂くんです。そして、私は今日の御理解を頂こうと思いましたら、御理解95節を頂くのです。神を商法にしてはならんという、この御理解。だから、それとこれとは、どう繋がるか私も分からない。ね。私どもが今日お礼に行くとか、記念品を整えるとか。ね。一席を儲けて、その夕食にでもお誘いをするとかという事とです、ね、銭金では拝まんとか、神を売って食う者が多いがと。此方は銭金では拝まんというのが、お道の信心でありますがです。それが、はたして、なら神を私は売る事ではない。銭金で拝むという事とは意味が違うと思うんですけれども、ここの御理解を頂いたから無理にでもここんところに、まあ、こぎ付ける訳じゃないけれども、ここから頂かなければならんと、こう思うのです。ね。そして、色々分からせて頂いた事は、久留米の初代を評して、金光様が仰られたという、石橋さんこそ真の人だと、こう言われた。なら、真の人というのは、出過ぎもせず、引っ込みすぎもせずと云うのである。言うならば、いつも自分の心の中に和の心と賀の心が、言うなら明るい心とにこやかな心が。ほれは、皆さんは、久留米の初代を知らない方が多いと思うんですけれども。それは、もう実に、ははあ、こういう人を豊な人、大きな人と言うのであろうと思うんです。それは、御立派な方でした。ね。なるほど、こういうような方を、まあ、言うなら私どもは今年のその念願である、焦点であるところの、いよいよ明るう、より明るく、よりにこやかにと云うのは、こういう方の事であろうかと思われるほどしの、やはり方でしたね、石橋松次郎という先生は。ね。ですから、なら、その石橋先生を金光様が評して、出過ぎもせず、引っ込みすぎもせず、石橋さんこそ真の人ですなあと仰られたという、その真の人というところがです、真の人になったら、銭金で拝む事もなかろう、商売にそれを使うような事はもちろんなさるまい。言うならば、いつも心の中には、それこそ春の(海?)のようなゆったりとした心。ね。これならば、暗い事が起こったからと云うて、顔色を変えなさるような事もあるまい。と云うて、本当に、まあ、調子に乗らなければおられないほどの、まあ、有り難尽くめの事が起こって来たからと云うて、決して調子に乗り過ぎなさるような事もなかろう。で、そこで、今日の石橋先生の御信心をです、私どもが頂く事によってこの95節をね、より深めて行きたいと、こう私は思わせて頂いた。そして、なら、昨夜の出来事。ね、昨夜の出来事と言うが、その宮崎さんと久富さんが遅うから出て見えられましてから、ね、こうこうでしたと。思い掛けなく、とにかく値段があんまり安いからビックリした。私も実は、ほらあ、もう、まあ、(勉強?)した、頂いたもんじゃあるねと。それは、やっぱりどうでんこうでん、いっちょ記念品なっときばらじゃこてと。ね。それには、この頃進んだ日にお食事の、もうここで皆さん、職人の方達全部あげまして。ちょうど私は(スネさん?)ところの宅祭りでしたから、その席にはおりませんでしたけれども、秋永先生が代ってその事をやって下さって。ここで婦人会の方達の奉仕を受けてから、まあ、言うならば、もうそれで切りをつけてある。ね。ところが、そのあまり安かったと言うて、私がポッとこう、調子に、ね、言うならば乗り過ぎた感じです。ほらあ、明日は、なら秋永委員長にそれ話して、四人で、なら久留米に記念品でも買いに行こうと。そして、向こうへ行ったんでは、昨日またご迷惑かけるといけんから、どこか料亭か何かで一席設けて、夕食でもあげようと。記念品もあげよう、感謝状も差し上げようと。私ども、これを一つもその、過ぎておるという事には思わなかったんです。それは、もう信心させて頂いとりゃ、そんくらいな事は当たり前。ね。感謝の意を現すのであるから、信心しとるから、とりわけ、そうであると、こう思うたけれども、考えて見ると小さい四畳半に、言うなら百燭光をいくつも、いわば点けたような感じに今日は思わせてもらいました。ははあ、こげんところが石橋先生辺りならば、決して調子に乗り過ぎりなさるような、はあ、それは神様のおかげで安うして頂いて。それは有り難かったなあと。んなら、明日それだけの金額払って来て下さいと、だけで済まされたに違いはない。それに、さあ記念品だ、さあ一席設けて、その夕食でもあげよう。もう、ここんところに私の信心のですね、本当なものじゃないという事を感じたんです。その事をお願いさせえもらいよったら、杯を二つ重ねて頂くんです。ね。あれが三段組みか何かのあんな杯なら、二段重なっておってもおかしい事ないけれども、普通のあの杯が二つ重なっておる事は、ちょっとおかしいじゃない。先日もちゃんとその事はしてあるじゃないか。それが、安かったからと言うて、もう調子に乗りよる。ただ、神様のおかげで、ね、言うならば十万かかるとが五万で済んだと。例えばですよね。ああ、神様のおかげでと言うておりゃそれで良いのを、こちらが調子に乗りすぎようとしておるところにです、私どもの信心を本当に再検討して行かなければならないなという事を感じたんです。これは言うならば、明るい心にも、にこやかな心にも、言うならば反する心にもなる。どうも、その私どもはそんな、とにかく日頃本当なものを頂いてない証拠にです、ね、そこで私どもが、なら日々取り組ませて頂く明るい心と。または、にこやかな心というものをです、もっともっと、深く頂いて。ね。そして、例えば、何かそこに暗い問題が起きたからと云うて、途端に心が暗くならないで済むようなおかげを頂いておきたい。今まで点いておった心の光がパッと消えてしまうような事のないようなおかげを頂きたい。ね。かと云うて、んなら、心がいっぺんに、その暗い心でも明るくなるような、例えば自分に都合の良い事がですかね、起きて来たら、もう点いておる電気の上にまいっちょ点けるような、私は事にならんで済むようなです、ね、平生心というものを失わんで済むようなおかげを、一つ頂きたい。ね。それが、私は明るい、本当の意味での明るい心であり、にこやかな心でなからなければならない。ね。そういう心の状態であるならばです、ね、信心を売り物にする事も、もちろんいらなければ。ね。商法に、いわば使うような事があろうはずも、もちろんございません。云うなら、安すぎたからと云うて、心が明るくなる。ほお、それはちょいとたまがった、高かの、という時にその不平不足の顔する事はいらん。高けりゃ高いで、それが黙って払えれる。安けりゃ安けで、やはり黙って払えれる。ね。そういう私になりたい。ね。そういう心が出過ぎもしなければ、引っ込み過ぎもせんで済む、云うなら真の人への一歩前進という事になるのじゃないでしょうか。ね、真の信心を分からせてもらい、頂かせてもらう為には、まず私どもが真の人にならずして真の信心が分かるはずはありません。そんならば、私どもが真の道を歩かなければなりません。真の道とは、出過ぎもしなければ、引っ込み過ぎもしないという道がそこにある。過ぎる事もなければ、引っ込み過ぎる事もない、私はおかげの頂けれる道がそこにある。どうも私ども、私自身がそんな風ですから、合楽には、ね、そういう、なるほど合楽の人達は段々おかげ頂いてから。ね。何かが起こった、暗い時にはどっこいでそれを受け止めれる稽古はなかなか出けて来たような感じがする。けれども、厳密に言うと、出けておるようで出けとらんですね。ね。夕べも私はある方のお取次ぎをさせて頂いてから、本当に出けとるごとして出けとらんの。もう、あんた達は椛目のスターじゃないか、と云うならば。もう何々さんの信心と、言うならば(        )として言われるぐらいな信心を頂いとる人達が、何ちゅう情けない事ねて言いたかったけれどです。ね。本当に明るくにこやかに受けられる、いわば受けなきゃならない事を、ね、いわば不平不足で言うならば(仏塔座?)でそれを受けておるという事。そこに、もう問題が狂うて来ておる。昨日の朝こそ頂いた御理解を、もう無くしてしまっておる。その中にひょっとして、ね、ひょっとしてじゃない、その中におかげがある事を忘れてしまっておる。その問題を粗末にしておる。ね。にこやかに明るくという、これに合ったら、そういう事は言わんでも済んだ。そういう事にはなって来なかった。ね。これは人間関係ですけども、(とろうに?)と思うような事がございましたがです。ね。出けておるようで、実際は出けていない。ね。それが、その例えば、問題に寄りますとですね、自分の身に都合の悪い事なもんだから、そういう事になって来る。ね。問題がある。そして、自分の心の中の光というものは、もう微動だもしない。ね。そういう受け方の出けれる人になりたい。ね。まあ、だから、まあ、どっちかと言うならば合楽の場合はです、ね、なら難儀に直面した時の姿勢は皆がある意味合いでは出けて来た。まあ、ある意味合いでは素晴らしいかも知れない。ところが、それとは反対にです、ね、おかげ頂いたとか、おかげ頂いたとかね。明るい事とでも言おうか。ね。自分に都合の、はあ、して、もう本当に都合が良すぎるぐらいに良いごたる事。ことに対してですね、もう本当に出けていない事を実感します、これは私をはじめ。ね。そして、そういう時に必ず過ぎよる。ね。そういうような事が後で、後々で非難の的になったりしておる。ね。自重心が取れない。ね。平生心を失っておる。ね。ですから、今日の御理解を頂かせてもらってから、一段それを感じるのですけども。ね。いよいよ和の心、賀の心。いわゆる、和賀心というものを、本当の意味で確かめ確かめして参りませんと、ね、そこに、その真の道を言うならば間違える事になる。ね、真の人ですなと、金光様が仰せられたという、その真の人を目指すために、真の道をやはり歩かなければならない。そこに、真の信心がある。もちろん、真の信心、そこには真のおかげ。いわば真のおかげ。神様が本当に下さろうとしておるおかげが、そこにある事ももちろんである。ね。私は、今朝から頂く95節のと、ね、昨夜からの、まあ、出来事とを思い比べましてです。ね。まあ、只今申しますような結論が私の心の上に出て来た。はあ、私が、もう出過ぎておるなと。まあ、何と、言うならば、まあ、言うならあまりにも軽々しいということ。調子に乗り過ぎておるということ。何の為に私が首までも出て行ってお礼に行かねばならんか。ね。ただ、本当に感謝の意を現すこと。または、なら、ここに見えられておられる間でも、ね、やはり特別な気持ちで奉仕して下さっておるのであるから。こちらも、特別の心を使うて奉仕して来たのであるから。ね。とりわけ特別、そういうような、いう事は必要ではない事が分かった。信心頂いておるおかげで、いや、そこんところが、ブレーキをかけっぱなしに下ろうとしたところを、ブレーキをかけさせて頂く事が出けた感じでございます。ね、それも、神様からそしてお知らせを頂いて、その事を神様にお願いさせてもらいよったら、二つの杯が重ねてある、二重になる。これでは、かえって過ぎた事になる。過ぎたるは、それこそ及ばざるがごとしである。ね。言うなら、おかしな結果になるのです。ただ、そこんところをです、神様のおかげで。それは、高かろうが安かろうが。例えば、金銭の事でも、ね、高いからと言うて、ね、顔色を変える事もいらなければ、安すぎたと云うて、ね、調子に乗りすぎて、さあ、安すぎたけんかててあげましょうといったような事も必要ではないということ。ね。ここんところを、一つ私どもが、特に合楽の皆さん。これは、私がそうだから言うんです。私がそういうところにかげておる。いわば、そういうところが、その過ぎる感じがあるから。ね、ここんところに、いつもブレーキをかけて、ね、自重させてもらう。ね。いつも明るい心。ね。自分の思うようになったから明るくなる。思うようにならなかったら暗くなるといったようなものでなく、いつも平生心、いつも同じ。そういう心を、いよいよ極めて行く為に、いよいよ、より明るく、よりにこやかにというところへ焦点をいよいよ置いて、信心を進めて行かなければならんと思いますね。どうぞ。